織田信長の時代 年表

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森蘭丸:人物年表

名前 年月日 年齢 説明
織田信長の誕生 1534年6月23日 (31)歳 織田信長は天文3年(1534年)、尾張の戦国武将・織田信秀の子として生まれた。出生地は勝幡城とする説が有力だが、那古野城説もあり、確定していない。 信秀は津島・熱田などの経済圏を押さえ、尾張国内で勢力を伸ばしていた。信長はこの基盤を受け継ぎ、尾張統一から畿内進出へ向かうことになる。後世の天下人誕生として重要だが、幼少期の逸話には軍記物に由来するものも多い。
織田信長の元服 1546年 (19)歳 信長は天文15年(1546年)頃、古渡城で元服し、織田三郎信長を名乗ったとされる。元服は武家の男子が成人として社会的地位を認められ、正式な名や装束を得る儀礼であった。 この時期の信長は父・信秀のもとで家督後継者として歩み始め、翌年頃には三河方面への初陣も経験したと伝わる。ただし元服の具体的な月日や儀式の詳細は確実な同時代史料に乏しいため、年次は概数として扱う必要がある。
濃姫との婚姻 1549年3月23日 (16)歳 天文18年(1549年)頃、織田信長は美濃の斎藤道三の娘と婚姻したとされる。女性は後世に濃姫、帰蝶などと呼ばれるが、同時代史料が少なく、実名や婚姻後の動静には不明点が多い。 この婚姻は、尾張の織田氏と美濃の斎藤氏が争いをいったん収め、政治的関係を結ぶ意味を持った。信長が後に美濃へ進出する背景として注目される一方、道三が信長へ国を譲る意図だったとする物語は慎重に検討する必要がある。
織田信秀の死と家督相続 1552年3月27日 (13)歳 父・織田信秀が天文21年(1552年)に死去し、信長が家督を継いだ。信秀の没年には天文20年(1551年)説もあるが、現在は1552年とする見解が広く採られている。 当時の織田家は尾張全域を統一した大名家ではなく、複数の織田系勢力や国人が並立していた。若い信長の継承も安定せず、弟・信勝を支持する家臣との対立が生じた。ここから信長は、親族と重臣を巻き込む尾張国内の権力闘争に臨むことになる。
正徳寺の会見 1553年6月1日 (12)歳 天文22年(1553年)、織田信長と斎藤道三が尾張の正徳寺で会見したと伝えられる。『信長公記』では、道三が信長の行列や礼装を見て力量を認め、自分の子らが信長の門前に馬をつなぐことになると語ったという。 この会見は、奇抜な若者と見られた信長が、政治家として評価される転機として有名である。ただし会話の細部は記録上の演出を含む可能性があり、史実としては織田・斎藤両家の同盟関係を確認する外交会談として捉えるのが適切である。
村木砦の戦い 1554年2月25日 (11)歳 天文23年(1554年)、信長は今川方が尾張知多郡に築いた村木砦を攻めた。斎藤道三から援軍を得て留守の備えとし、海路で知多へ渡って砦を攻略したと『信長公記』に記される。 信長自身も鉄砲を用いて前線で指揮したとされ、尾張で鉄砲が実戦投入された早い事例として知られる。この勝利によって水野氏への圧迫を退け、今川氏の尾張進出に対抗した。若い信長の機動力と、新兵器を積極的に用いる戦い方を示す出来事である。
長良川の戦い 1556年5月28日 (9)歳 弘治2年(1556年)、美濃で斎藤道三と子の義龍が戦い、道三が敗死した。信長は義父にあたる道三を救援するため尾張から出兵したが、戦場への到着前後に道三は討たれ、信長軍も退却した。 義龍は美濃の家臣団を掌握して支配を固め、信長による美濃攻略を阻んだ。婚姻による織田・斎藤同盟の前提が崩れたことで、尾張と美濃の関係は再び敵対へ向かう。信長の美濃進出を考えるうえで大きな転換となった合戦である。
稲生の戦い 1556年9月27日 (9)歳 弘治2年(1556年)、織田信長と弟・信勝を支持する柴田勝家、林秀貞らが尾張の稲生原で戦った。兵力では劣勢だったとされる信長側が勝利し、信勝方は末森城へ退いた。 母の取りなしによって信勝らはいったん赦免され、柴田勝家は後に信長の重臣となった。この戦いは単純な兄弟喧嘩ではなく、父・信秀の死後に表面化した家督と家臣団編成をめぐる争いである。勝利した信長は、尾張国内で主導権を強める重要な足場を得た。
織田信勝の殺害 1557年11月22日 (8)歳 稲生の戦い後に赦免された信長の弟・信勝は、再び反抗を企てたとされ、弘治3年(1557年)に清洲城へ誘い出されて殺害された。信勝、信行、達成など名の表記には史料による異同がある。 『信長公記』では柴田勝家が信勝の企てを信長へ知らせたとする。この事件によって同母弟を中心とする家督争いは収束し、信長は有力家臣を自らのもとへ再編していった。戦国期の家督相続が、血縁だけでなく家臣の支持と軍事力で決したことを示す。
尾張支配の確立 1559年4月8日 (6)歳 永禄2年(1559年)頃、信長は尾張上四郡を支配した岩倉織田氏を破り、尾張国内の主要な対抗勢力をほぼ制圧した。同年に上洛し、将軍足利義輝へ拝謁したともされる。 一般に「尾張統一」と呼ばれるが、その達成年には1559年・1560年など複数の捉え方があり、地域支配が一度に完成したわけでもない。この段階で信長が尾張の代表的な戦国大名となり、今川氏や斎藤氏と本格的に対抗できる軍事・政治基盤を整えたという意味で重要である。
桶狭間の戦い 1560年6月12日 (5)歳 永禄3年(1560年)、尾張へ進軍した今川義元の軍を織田信長が桶狭間周辺で破り、義元を討ち取った。今川軍を極端な大軍、織田軍を少数とする数字には史料ごとの差があり、奇襲の具体像も研究が続いている。 今川氏の尾張方面への圧力は後退し、松平元康、後の徳川家康が三河で自立する契機となった。信長にとっては領国の危機を転じて名声を高め、美濃攻略へ力を集中できるようになった画期的な勝利である。
清洲同盟 1562年2月18日 (3)歳 永禄5年(1562年)頃、織田信長と三河の松平元康、後の徳川家康が同盟を結んだ。清洲城で盟約したと広く呼ばれるが、成立時期や会見の場所を含め、同時代史料から細部を確定できない点がある。 同盟により信長は東方の安全を得て美濃攻略に集中し、家康は今川氏から離れて三河統一を進めた。両者の関係は対等な協力から次第に力の差を伴うものへ変化したが、本能寺の変まで約二十年続き、信長の勢力拡大を支えた重要な外交関係である。
稲葉山城攻略と岐阜への改称 1567年9月17日 2歳 永禄10年(1567年)、信長は斎藤龍興の稲葉山城を攻略し、美濃を支配下に置いた。斎藤家臣の離反などを背景に龍興を追放し、居城を小牧山から稲葉山へ移した。 信長は城下の井ノ口を「岐阜」と改め、楽市楽座の制札を出すなど、新たな政治・経済拠点の整備を進めた。「天下布武」の印章を用い始めた時期とも重なり、美濃一国の獲得にとどまらず、畿内へ進出して天下の政治秩序に関与する姿勢を明確にした転換点である。
足利義昭を奉じて上洛 1568年10月16日 3歳 永禄11年(1568年)、信長は将軍候補の足利義昭を奉じて岐阜を出発し、近江の六角氏を退けて京都へ入った。義昭は室町幕府第15代将軍となり、信長は幕府再興の軍事的な後ろ盾となった。 上洛によって信長は尾張・美濃の領主から全国政治に影響する存在へ飛躍した。当初は義昭と協力したが、将軍権力の回復を目指す義昭と、独自に畿内支配を進める信長の利害は次第に衝突する。この協力と対立が、後の室町幕府終焉へつながった。
金ヶ崎の退き口 1570年6月 5歳 元亀元年(1570年)、信長は越前の朝倉義景を攻めたが、同盟者で義弟の浅井長政が離反したため、挟撃される危険に直面した。信長は金ヶ崎から京都へ撤退し、羽柴秀吉や明智光秀らが退却を支えたとされる。 後世には秀吉の華々しい「殿軍」の逸話として語られるが、参加者や経路の細部には検討の余地がある。重要なのは、浅井氏との婚姻同盟が崩壊し、信長が浅井・朝倉両氏との長期戦へ入ったことであり、反信長勢力が結びつく契機となった。
姉川の戦い 1570年7月30日 5歳 元亀元年(1570年)、近江の姉川付近で織田信長・徳川家康の連合軍と、浅井長政・朝倉氏の連合軍が戦った。織田・徳川方が戦場を制したとされるが、浅井・朝倉両氏を直ちに滅ぼす決定的勝利ではなかった。 戦後も浅井・朝倉方は比叡山や一向一揆などと結び、信長を圧迫し続けた。「姉川の戦い」という名称や合戦像は後世に整えられた面もあるが、信長と家康の軍事協力、そして近江・越前をめぐる戦争の長期化を象徴する重要な戦いである。
石山合戦の開始 1570年10月11日 5歳 元亀元年(1570年)、大坂の石山本願寺が織田信長に対して挙兵し、約十年に及ぶ石山合戦が始まった。本願寺第11世顕如は各地の門徒や諸大名と連携し、畿内と交通路をめぐって織田軍に抵抗した。 戦いは石山本願寺だけでなく、長島、越前、加賀などの一向一揆とも関係する広域的な抗争となった。信長にとって本願寺勢力は、宗教だけでなく都市、流通、地域共同体を基盤とする強力な政治・軍事勢力であり、畿内支配を確立するうえで最大級の課題となった。
比叡山延暦寺の焼き討ち 1571年9月30日 6歳 元亀2年(1571年)、信長は比叡山延暦寺を攻撃し、山上や周辺の堂舎・集落を焼いた。延暦寺が浅井・朝倉方を支援し、京都近郊の軍事的脅威となったことが背景にある。 僧侶だけでなく俗人や女性、子どもにも被害が及んだとする記録があり、信長の苛烈さを象徴する事件として語られてきた。一方、被害の範囲や人数については史料と考古学の両面から研究が続く。宗教勢力も領地と武力を持った戦国社会の構造を踏まえて理解すべき出来事である。
三方ヶ原の戦い 1573年1月25日 8歳 元亀3年(1572年)、西上を開始した武田信玄の軍が遠江の三方ヶ原で徳川家康軍を破った。織田信長は家康へ援軍を送ったが、織田・徳川方は大敗し、家康は浜松城へ退いた。 信玄の進軍は、足利義昭や本願寺など反信長勢力の動きと重なり、信長を大きく圧迫した。しかし信玄が翌年に病没したため、武田軍は撤退する。この戦いは信長自身が主将となった合戦ではないが、織田・徳川同盟が直面した最大級の軍事的危機として重要である。
足利義昭の追放 1573年8月15日 8歳 天正元年(1573年)、対立を深めた将軍足利義昭が信長に挙兵した。信長は義昭の拠点を攻め、京都から追放した。これにより室町幕府は事実上終焉したと一般に説明される。 ただし義昭は将軍職を直ちに失ったわけではなく、のちに毛利氏の庇護を受けて鞆へ移り、反信長活動を続けた。したがって、この事件は幕府組織が一日に消滅したというより、京都を基盤とする将軍の統治能力が失われ、信長が独自の畿内政権を進める転換点と捉えられる。
朝倉氏の滅亡 1573年9月16日 8歳 天正元年(1573年)、信長は近江へ出陣した朝倉義景軍を追撃して越前へ侵攻した。義景は一乗谷を離れて退却したが、家臣の離反に遭い自害し、越前を支配した戦国大名朝倉氏は滅亡した。 金ヶ崎以来続いた浅井・朝倉両氏との戦争は、まず朝倉氏の崩壊によって大勢が決した。信長は越前を支配下へ組み込もうとしたが、旧朝倉家臣や一向宗勢力の対立から翌年には大規模な一揆が起こる。征服後の領国統治が容易ではなかったことも示す出来事である。
浅井氏の滅亡 1573年9月26日 8歳 朝倉氏を滅ぼした信長は天正元年(1573年)、北近江の小谷城を攻めた。浅井長政と父・久政は自害し、浅井氏は戦国大名として滅亡した。信長の妹・お市の方と娘たちは城を出て織田方に引き取られたとされる。 これによって信長は近江北部を掌握し、尾張・美濃から京都へ通じる交通路の安定を進めた。婚姻同盟を結んだ近親者との戦争が滅亡まで至った事件であり、戦国期の同盟が家同士の利害によって容易に反転し得たことを示している。
長島一向一揆の鎮圧 1574年10月13日 9歳 天正2年(1574年)、信長は伊勢長島の一向一揆に対して大規模な攻撃を行った。長島は木曽三川の輪中と水路に守られた要地で、信長は過去の攻撃で弟・信興や多くの家臣を失っていた。 織田軍は陸海から包囲し、降伏しようとした一揆勢を攻撃したほか、籠城拠点を焼き払って多数を死なせたと伝わる。長年の抵抗は終結したが、苛烈な殲滅戦となった。地域共同体と宗教的結合を基盤とする一揆の強さと、信長の領域支配の暴力性を示す事件である。
長篠・設楽原の戦い 1575年6月29日 10歳 天正3年(1575年)、三河の長篠城を包囲した武田勝頼軍と、救援に来た織田信長・徳川家康連合軍が設楽原で戦った。連合軍は馬防柵と多数の鉄砲を活用して武田軍を破り、武田氏は有力家臣を多く失った。 「三千丁の鉄砲による三段撃ち」という定型的な説明は後世の軍記に依存し、現在は再検討されている。それでも、大量の鉄砲、野戦築城、組織的な兵站を組み合わせた戦いであり、織田・徳川側が東海方面で優位を確立する大きな契機となった。
安土城の築城開始 1576年2月16日 11歳 天正4年(1576年)、信長は近江の安土山に新たな城の築造を開始し、岐阜から本拠を移した。琵琶湖の水運と京都への交通を押さえる位置にあり、全国へ拡大する政権を指揮する拠点として選ばれた。 城の中心には高層の天主が築かれ、御殿、石垣、城下町が整備された。天主は1579年に完成したとされ、政治的権威を視覚的に示す画期的建築となった。本能寺の変後に焼失したため不明点も多いが、近世城郭と城下町の展開に大きな影響を与えた。
紀州征伐 1577年2月26日 12歳 天正5年(1577年)、信長は紀伊の雑賀衆を攻めるため大軍を動員した。雑賀衆は鉄砲を多数保有する地域勢力で、石山本願寺を海上・陸上から支援し、織田軍に抵抗していた。 信長軍は雑賀地域へ進攻したが、地形と強固な抵抗のため完全な制圧には至らず、雑賀側との誓約を得て撤兵した。その後も地域内部では親織田派と反織田派の対立が続いた。この遠征は、石山本願寺を孤立させるため、周辺の補給網と同盟勢力を切り崩す戦略の一環であった。
石山本願寺の退去 1580年4月18日 15歳 天正8年(1580年)、正親町天皇の仲介によって織田信長と本願寺の講和が成立した。本願寺宗主の顕如は石山を退去し、抵抗を続けた長男・教如も同年中に退いたため、約十年に及ぶ石山合戦は終結した。 信長は畿内の最大級の対抗勢力を排除し、大坂という水陸交通の要地を掌握した。寺地は退去後まもなく焼失したが、焼失原因は確定していない。この地は後に豊臣秀吉が大坂城を築く政治・軍事・経済の中心地となり、近世大坂の発展へつながった。
佐久間信盛の追放 1580年10月3日 15歳 天正8年(1580年)、信長は重臣の佐久間信盛と子の信栄を高野山方面へ追放した。信盛は長年にわたり大軍を預かり、石山本願寺攻めの責任者を務めていたが、信長は十九か条の折檻状で働きが不十分だったことなどを厳しく責めた。 譜代の筆頭級家臣であっても地位を保障されず、軍事・行政上の成果を継続して求められたことを示す。同じ時期には林秀貞らも追放されており、信長政権が家臣団を再編し、方面軍を軸とする支配体制を強化する過程として重要である。
甲州征伐と武田氏滅亡 1582年2月25日 17歳 天正10年(1582年)、織田信忠を主力とする織田軍と徳川・北条の諸軍が武田領へ侵攻した。木曾義昌らの離反で武田側は急速に崩れ、武田勝頼は天目山麓で自害し、戦国大名武田氏は滅亡した。 信長は甲斐へ入り、旧武田領を家臣や同盟者へ配分して東国支配の再編を進めた。この勝利で織田政権の領域は大きく拡大し、信長の軍事的優位は頂点に達した。しかし帰還から数か月後に本能寺の変が起こり、新たな支配体制は短期間で動揺することになる。
本能寺の変 1582年6月21日 17歳 天正10年(1582年)、中国方面へ出陣する途中だった明智光秀が軍を京都へ向け、本能寺に滞在していた主君・織田信長を襲撃した。信長はわずかな供回りと戦った後に自害し、嫡男信忠も別の御所で明智軍に攻められて自害した。 光秀が謀反を起こした動機は同時代史料から確定できず、怨恨、将来への不安、政治的野心、複合要因など多くの説がある。信長父子が同時に失われたことで織田政権の継承は崩れ、羽柴秀吉らによる主導権争いへ移った。