勝海舟の時代

futabazugara さんのグループ一覧

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カテゴリ 歴史
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説明

「勝海舟の時代」は、幕末から明治へと日本の政治・社会が大きく組み替えられた時代を、勝海舟を中心に、その周囲で交錯した人々と出来事からたどるグループである。黒船来航、開国、幕府海軍の建設、戊辰戦争、江戸城開城、旧幕臣の救済、そして明治国家への移行までを通して、体制が崩れるときに人は何を守り、何を変えようとするのかを考える。

勝海舟は、江戸の下級幕臣の家に生まれた。父の勝小吉は、喧嘩や放浪を重ねた異色の旗本であり、自伝『夢酔独言』に失敗も含めた人生を率直に記した。海舟はそうした豪胆さや身分にとらわれない気質を受け継ぎながら、蘭学、西洋兵学、航海術を学んだ。佐久間象山からは西洋兵学を学び、横井小楠らの開国・交易・海軍建設をめぐる思想とも響き合った。

1853年のペリー来航は、海舟の人生を大きく変えた。老中阿部正弘が諸大名や幕臣へ海防策を求めると、海舟は身分を越えた人材登用、軍艦建造、海軍創設、砲台整備、貿易の必要を訴える意見書を提出した。阿部はその能力を認め、海舟を海軍行政へ登用する。幕府が従来の家格だけでは危機に対応できず、知識や技能を持つ人物を必要とし始めたことを示す出来事だった。

海舟は長崎海軍伝習所で、オランダ人教官から航海術、砲術、測量などを学んだ。そこには幕臣だけでなく諸藩の人材も集まり、藩境を越えて近代的な海軍を築く可能性が生まれた。薩摩藩主島津斉彬が進めた造船や集成館事業、そして幕府側で咸臨丸の航海を支えた小野友五郎ら技術者の活動も、海防を抽象的な議論から具体的な技術と制度へ変えていった。

1860年、海舟は咸臨丸で太平洋を横断した。軍艦奉行の木村芥舟、航海長の小野友五郎、福澤諭吉、中浜万次郎、米海軍士官ブルックらが同じ船に乗り、サンフランシスコへ到達した。この航海はしばしば海舟一人の英雄譚として語られるが、実際には日本人乗組員とアメリカ人船員による共同事業だった。海舟はアメリカ社会を観察し、身分制に縛られない社会と海軍力、通商、国家制度との関係を考えるようになる。一方、後年の福澤は、幕臣として徳川家に仕え続けた海舟の姿勢を『瘠我慢の説』で批判した。同じ洋行経験から異なる国家観が生まれたのである。

帰国後、海舟は徳川家茂の信任を得て軍艦奉行並となり、その建言により幕府は神戸に海軍操練所を設けた。そこでは幕臣に限らず、諸藩士や脱藩者も受け入れられた。松平春嶽や大久保一翁の紹介で海舟を訪ねた坂本龍馬も、その開国論と海軍構想に共鳴して門人となった。龍馬が海舟を斬るつもりで訪ねたという逸話には異説があるが、両者の出会いが龍馬の進路を変えたことは確かである。操練所と海舟の私塾は、幕府の機関でありながら幕府を越える人材交流の場になった。

しかし、反幕府的な志士まで集まったことを疑われ、海舟は罷免され、操練所も閉鎖された。龍馬らは薩摩藩の支援を受けて亀山社中、海援隊へと活動の場を移していく。海舟の構想は一度挫折したが、そこで生まれた人脈と経験は、幕府の枠外で新しい政治や交易を担う力へ転化した。

1864年、海舟は大坂で西郷隆盛と初めて会談し、幕府だけで国政を担うことの限界と、雄藩が協力する新しい政治の必要を語った。西郷はその見識を高く評価し、両者の間には立場を越えた理解が生まれた。第二次長州征討で幕府軍が苦戦すると、海舟は軍艦奉行に復帰し、宮島で長州藩との停戦交渉を担当した。軍事的勝利に固執せず、内戦を終わらせることを優先した点には、後の江戸城開城交渉へつながる姿勢がすでに現れている。

大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸へ戻り、恭順を表明した。新政府軍が江戸へ迫るなか、抗戦を主張した小栗忠順らに対し、海舟は内戦を避ける和平路線を選んだ。ただし無条件に屈服したのではなく、交渉が失敗した場合の市民避難や江戸防衛も検討していた。高橋泥舟が慶喜の警護のため江戸を離れられなかったことから、海舟の推薦で山岡鉄舟が駿府へ赴き、西郷との予備交渉を行った。続く海舟と西郷の会談によって江戸総攻撃は中止され、江戸城は戦闘なしで新政府へ引き渡された。

「無血開城」は海舟と西郷の美談だけではない。山岡鉄舟をはじめとする交渉担当者、恭順を選んだ徳川慶喜、新政府と旧幕府の諸勢力、外国公使の意向、そして戦火を避けたい江戸の社会が重なって実現した政治的妥協だった。その一方で戦争は東北や箱館へ続き、榎本武揚は旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ向かった。江戸の平和は、日本全体の「無血」を意味したわけではない。

維新後も海舟の仕事は終わらなかった。静岡へ移された徳川家と、俸禄を失った多数の旧幕臣を支援し、移住、就職、授産を調整した。明治政府では海軍卿や枢密顧問官を務めたが、薩長中心の政治や対外戦争には批判的だった。徳川慶喜の赦免と名誉回復にも長年尽力し、1898年の慶喜参内を晩年の成果として見届けた。

このグループが描くのは、先見的な英雄一人が時代を変えた物語ではない。徳川家茂、慶喜、阿部正弘、松平春嶽、西郷隆盛、坂本龍馬、山岡鉄舟、小栗忠順、福澤諭吉、榎本武揚らが、異なる忠義、国家像、改革案を抱えて選択した歴史である。勝海舟の生涯を軸に見ることで、幕府を倒す側と守る側という単純な二分法を越え、古い体制の内部から近代化を進めた人々、戦争を避けようとした交渉、敗者となった人々の生活を支える責任まで含めて、幕末維新を捉え直すことができる。

結成日 -
活動地 -
解散日 活動中

所属人物一覧

名前 ふりがな 誕生日 出生地 太陽星座 ステータス状態
明治天皇 めいじてんのう 1852年11月03日 (59歳没) 京都府京都市 / 35.0116 / 135.7681 ♏ 蠍座 活動中
徳川家茂 とくがわいえもち 1846年07月17日 (20歳没) 東京都 ♋ 蟹座 活動中
徳川慶喜 とくがわよしのぶ 1837年10月28日 (76歳没) 東京都 ♏ 蠍座 活動中
榎本武揚 えのもとたけあき 1836年10月05日 (72歳没) 東京都 ♎ 天秤座 活動中
山岡鉄舟 やまおかてっしゅう 1836年07月23日 (51歳没) 東京都 ♌ 獅子座 活動中
坂本龍馬 さかもとりょうま 1836年01月03日 (31歳没) 高知県 ♑ 山羊座 活動中
高橋泥舟 たかはしでいしゅう 1835年03月15日 (67歳没) 東京都 ♓ 魚座 活動中
福澤諭吉 ふくざわゆきち 1835年01月10日 (66歳没) 大阪府 ♑ 山羊座 活動中
孝明天皇 こうめいてんのう 1831年07月22日 (35歳没) 京都府京都市 / 35.0116 / 135.7681 ♋ 蟹座 活動中
木村芥舟 きむらかいしゅう 1830年02月27日 (71歳没) 東京都 ♓ 魚座 活動中
西周 にしあまね 1829年03月07日 (67歳没) 島根県 ♓ 魚座 活動中
松平春嶽 まつだいらしゅんがく 1828年10月10日 (61歳没) 東京都 ♎ 天秤座 活動中
西郷隆盛 さいごうたかもり 1828年01月23日 (49歳没) 鹿児島県 ♒ 水瓶座 活動中
小栗忠順 おぐりただまさ 1827年07月16日 (40歳没) 東京都 ♋ 蟹座 活動中
勝海舟 かつかいしゅう 1823年03月12日 (75歳没) 東京都 ♓ 魚座 活動中
李鴻章 りこうしょう 1823年02月15日 (78歳没) 中国・安徽省合肥市 / 31.8206 / 117.2272 ♒ 水瓶座 活動中
阿部正弘 あべまさひろ 1819年12月03日 (37歳没) 東京都 ♐ 射手座 活動中
大久保一翁 おおくぼいちおう 1818年01月05日 (70歳没) 東京都 ♑ 山羊座 活動中
小野友五郎 おのともごろう 1817年12月01日 (80歳没) 茨城県 ♐ 射手座 活動中
佐久間象山 さくましょうざん 1811年03月22日 (53歳没) 長野県 ♈ 牡羊座 活動中
横井小楠 よこいしょうなん 1809年09月22日 (59歳没) 熊本県 ♍ 乙女座 活動中
島津斉彬 しまづなりあきら 1809年04月28日 (49歳没) 東京都 ♉ 牡牛座 活動中
勝小吉 かつこきち 1802年02月17日 (48歳没) 東京都 ♒ 水瓶座 活動中

出身地分析

都道府県別

都道府県 人数 割合
茨城県 1人 4%
東京都 13人 57%
長野県 1人 4%
大阪府 1人 4%
島根県 1人 4%
高知県 1人 4%
熊本県 1人 4%
鹿児島県 1人 4%
京都府京都市 2人 9%
中国・安徽省合肥市 1人 4%

エリア別

エリア 人数 割合
北海道 0人 0%
東北 0人 0%
関東 14人 61%
中部 1人 4%
近畿 1人 4%
中国 1人 4%
四国 1人 4%
九州・沖縄 2人 9%
地域不明 3人 13%

全23人中の人数・割合です。

出来事一覧

年表を見る
タイトル 期間 説明
アヘン戦争 1840年 〜 1842年 清がアヘン密輸を取り締まったことを契機に、イギリスとの戦争が始まった。清は近代的な海軍力に敗れ、1842年の南京条約で香港割譲、賠償金支払い、開港などを受け入れた。 敗戦の情報はオランダ風説書などを通じて日本へ伝わり、幕府や知識人に強い衝撃を与えた。幕府は異国船打払令を薪水給与令へ改め、勝海舟らが海防・海軍の必要性を考える時代的背景となった。
海防意見書の提出 1853年 ペリー来航後、老中阿部正弘が諸大名・幕臣らから海防策を募ると、勝海舟は意見書を提出した。身分にとらわれない人材登用、軍艦建造、海軍創設、砲台整備、貿易などを提案した。 蘭学者として困窮していた勝が幕府に能力を認められ、海軍行政へ登用される大きな契機となった。
長崎海軍伝習への参加 1855年 〜 1859年 幕府がオランダの協力で長崎海軍伝習所を開設すると、勝海舟は伝習生として派遣された。オランダ語の知識を生かして教官と伝習生の間を取り持ち、航海術、砲術、測量などを学んだ。 薩摩藩士ら諸藩の参加者とも交流し、藩を越えた海軍建設という勝の構想を育てる場となった。
アロー号事件 1856年10月08日 清の官憲が、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号を臨検し、清人船員12名を拘束した(うち3人を海賊の容疑で逮捕)。イギリスは逮捕の際に自国旗が引き下ろされたことを侮辱だとして武力行使に踏み切り、フランスも加わる第二次アヘン戦争へ発展した。 英仏軍の進撃と天津条約・北京条約による清のさらなる開国は、長崎海軍伝習に参加していた勝海舟らが、西洋式海軍と国際情勢への理解を深めなければならない現実を映す同時代の事件だった。
咸臨丸の太平洋横断 1860年02月10日 〜 1860年06月 日米修好通商条約の批准書交換使節を護衛するため、咸臨丸が浦賀を出航し、サンフランシスコへ到達した。勝海舟は指揮官、木村芥舟は軍艦奉行として乗船した。 小野友五郎、福澤諭吉、通訳の中浜万次郎、米海軍のブルックらも参加。日本の船として初の太平洋往復航海となり、勝はアメリカ社会を視察した。
軍艦奉行並への就任 1862年 幕政改革により勝海舟が軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並に任命され、幕府海軍の中枢へ復帰した。 将軍徳川家茂の上洛に随行するなかで、大坂湾周辺の港湾を調査。神戸を国際貿易と海軍教育の拠点にする構想を家茂へ説き、海軍操練所設置の許可を得た。
坂本龍馬の入門 1863年 土佐藩を脱藩した坂本龍馬が、松平春嶽や大久保一翁らの紹介を得て勝海舟を訪ねた。龍馬が勝を斬る目的で面会したという有名な話もあるが、成立過程には異説がある。 龍馬は勝の開国論と海軍構想に共鳴して門人となり、海軍塾や神戸海軍操練所の設立・運営を助けた。
神戸海軍操練所の設置 1863年 〜 1865年 勝海舟の提案により、幕府が神戸に海軍操練所を設けた。勝は頭取として、幕臣だけでなく坂本龍馬ら諸藩・脱藩の若者も受け入れ、航海術や海軍技術の教育を目指した。 勝の私塾である海軍塾とも密接に関係し、近代海軍と通商による国家形成を構想する人材交流の拠点となった。
勝海舟と西郷隆盛の初会談 1864年10月 第一次長州征討をめぐる政局のなか、西郷隆盛が大坂で勝海舟と会談した。勝は幕府だけで国政を担うことの限界や、雄藩が協力する新たな政治構想を語った。 西郷は勝の見識を高く評価し、大久保利通への書簡に強い印象を記した。この出会いが、後の江戸城開城交渉における相互理解の基礎となった。
軍艦奉行罷免と操練所閉鎖 1864年 〜 1865年 神戸海軍操練所に反幕府的な志士も集まっていると疑われ、勝海舟は軍艦奉行を罷免されて江戸で蟄居した。 操練所も閉鎖され、坂本龍馬ら門人は薩摩藩などの支援を受けて新たな活動へ移った。勝が構想した藩を越えた海軍教育は中断したが、そこで形成された人脈は幕末政局に影響を残した。
軍艦奉行への復帰 1866年 第二次長州征討で幕府軍が苦戦するなか、勝海舟は軍艦奉行に復帰した。将軍徳川家茂の死去もあり、幕府は戦争継続と停戦の判断を迫られていた。 勝は長州藩との交渉役を命じられ、単なる軍事的征服ではなく、内戦を終わらせて国内の分裂を避ける方針で交渉に臨んだ。
宮島停戦談判 1866年 勝海舟が幕府代表として安芸国宮島へ赴き、長州藩の広沢真臣・井上馨らと第二次長州征討の停戦を交渉した。 将軍家茂の死去を受けた休戦で合意したが、幕府側の方針変更や勅命との関係で勝は不信を深め、役職を辞した。幕府の軍事的・政治的威信低下を示す出来事でもあった。
鳥羽・伏見の戦い 1868年01月27日 〜 1868年01月30日 旧幕府軍と新政府軍が京都南郊で衝突し、旧幕府側が敗北した。徳川慶喜は大坂城から軍艦開陽丸で江戸へ戻り、上野寛永寺で恭順・謹慎した。 新政府軍の東征と江戸総攻撃が現実化すると、勝海舟は内戦の拡大を避け、慶喜の助命と徳川家存続を実現する交渉の中心となった。
陸軍総裁就任と江戸防衛・和平準備 1868年02月 勝海舟が旧幕府の陸軍総裁に起用され、新政府軍への対応を任された。小栗忠順らの抗戦論に対し、勝は恭順と和平を主張した。 交渉が決裂した場合に備えて江戸市民の避難、艦船の移動、市街への放火などの防衛策も検討したとされる一方、新政府側へ書簡を送り、総攻撃回避の道を探った。
山岡鉄舟・西郷隆盛会談 1868年04月01日 勝海舟の方針を受けた山岡鉄舟が、官軍の包囲を越えて駿府へ赴き、西郷隆盛と会談した。山岡は徳川慶喜の恭順意思を伝え、江戸城開城の条件を協議した。 慶喜を備前藩へ預ける条件には強く反対し、西郷から一定の譲歩を得た。この予備交渉が、続く勝と西郷の直接会談を成立させる基礎となった。
勝海舟・西郷隆盛会談 1868年04月05日 〜 1868年04月06日 江戸総攻撃の直前、旧幕府代表の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛が江戸で会談した。徳川慶喜の処遇、江戸城と武器・軍艦の引き渡しなどを協議した。 山岡鉄舟による予備交渉やイギリス公使パークスの意向なども背景となり、予定されていた総攻撃は中止された。江戸市街での大規模戦闘を避ける決定的な交渉となった。
江戸城無血開城 1868年05月03日 合意に基づき、旧幕府が江戸城を新政府へ戦闘なしで引き渡した。徳川慶喜は水戸で謹慎し、徳川宗家の存続も認められた。 人口の集中する江戸が戦火を免れたことから「無血開城」と呼ばれる。勝海舟と西郷隆盛の交渉が象徴的に語られるが、山岡鉄舟、旧幕府・新政府の諸担当者、外国公使らも過程に関わった。
徳川家の静岡移封と旧幕臣救済 1868年 〜 1871年 徳川宗家が駿河・遠江など70万石の静岡藩へ移され、多数の旧幕臣と家族が移住した。俸禄を失う者も多く、深刻な生活問題が生じた。 勝海舟は新政府と徳川家の間を調整し、旧幕臣の移住、就職、授産を支援した。牧之原台地などでの茶畑開墾も進められ、静岡茶の発展へつながった。
海軍卿就任 1873年10月25日 〜 1875年04月25日 明治政府に出仕していた勝海舟が参議兼海軍卿に就任した。幕府海軍の育成に携わった経験を買われた人事だった。 しかし新政府の薩長中心の政治や台湾出兵などに批判的で、実務の多くを部下に委ねたとされる。1875年に参議を辞し、元老院議官にも任命されたが短期間で辞任した。
伯爵授爵と枢密顧問官就任 1887年05月09日 〜 1888年04月30日 勝海舟は華族令により伯爵を授けられ、翌年には新設された枢密院の枢密顧問官となった。旧幕府の最高幹部経験者として明治国家の顕職に列した。 一方で政府の対外政策を批判し、日清戦争にも反対した。著述や談話を通じて幕末史を回顧しながら、徳川家や旧幕臣の名誉・生活を守る活動を続けた。
日清戦争 1894年08月01日 〜 1895年04月17日 朝鮮で東学党の指導する農民反乱(甲午農民戦争)が起きると日本と清が出兵し、朝鮮をめぐる対立から戦争へ入った。戦局は日本優勢で進み、1895年4月17日の下関条約によって清は朝鮮の独立を認め、台湾などを日本へ割譲した。 勝海舟は開戦に反対し、戦勝に沸く人々に、欧米の植民地政策に安易に追従する愚かさを説き、清とは争うのではなく共に欧米に対抗すべきだと主張した。幕末に海防と開国を唱えた勝が、近代日本の対外膨張にも無条件には同調しなかったことを示す晩年の重要な論点である。
徳川慶喜の参内 1898年03月02日 長く謹慎と隠退の生活を送った徳川慶喜が皇居へ参内し、明治天皇に拝謁した。朝敵とされた最後の将軍が公に赦されたことを示す象徴的な出来事となった。 勝海舟は維新後一貫して慶喜の赦免と名誉回復を政府へ働きかけており、この拝謁の実現を自らの晩年の重要な成果と受け止めた。
勝海舟の死去 1899年01月19日 勝海舟が東京・赤坂氷川の自邸で脳溢血のため死去した。満75歳。「コレデオシマイ」と言い残したという逸話が知られる。 幕府海軍の建設、咸臨丸渡米、江戸城開城、旧幕臣救済に関する多くの記録と談話を残した。『氷川清話』は、吉本襄が勝の談話をまとめ、勝の生前である1897年に刊行した談話集で、政治・外交や同時代の人物に対する率直な見解を後世へ伝えている。墓は洗足池公園にあり、その隣には勝が自費で建てた西郷南洲(隆盛)の留魂碑が建っている。