勝海舟の時代 年表
明治天皇:人物年表
| 名前 | 年月日 | 年齢 | 説明 |
|---|---|---|---|
| アヘン戦争 | 1840年 | (12)歳 | 清がアヘン密輸を取り締まったことを契機に、イギリスとの戦争が始まった。清は近代的な海軍力に敗れ、1842年の南京条約で香港割譲、賠償金支払い、開港などを受け入れた。 敗戦の情報はオランダ風説書などを通じて日本へ伝わり、幕府や知識人に強い衝撃を与えた。幕府は異国船打払令を薪水給与令へ改め、勝海舟らが海防・海軍の必要性を考える時代的背景となった。 |
| 海防意見書の提出 | 1853年 | 1歳 | ペリー来航後、老中阿部正弘が諸大名・幕臣らから海防策を募ると、勝海舟は意見書を提出した。身分にとらわれない人材登用、軍艦建造、海軍創設、砲台整備、貿易などを提案した。 蘭学者として困窮していた勝が幕府に能力を認められ、海軍行政へ登用される大きな契機となった。 |
| 長崎海軍伝習への参加 | 1855年 | 3歳 | 幕府がオランダの協力で長崎海軍伝習所を開設すると、勝海舟は伝習生として派遣された。オランダ語の知識を生かして教官と伝習生の間を取り持ち、航海術、砲術、測量などを学んだ。 薩摩藩士ら諸藩の参加者とも交流し、藩を越えた海軍建設という勝の構想を育てる場となった。 |
| アロー号事件 | 1856年10月8日 | 3歳 | 清の官憲が、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号を臨検し、清人船員12名を拘束した(うち3人を海賊の容疑で逮捕)。イギリスは逮捕の際に自国旗が引き下ろされたことを侮辱だとして武力行使に踏み切り、フランスも加わる第二次アヘン戦争へ発展した。 英仏軍の進撃と天津条約・北京条約による清のさらなる開国は、長崎海軍伝習に参加していた勝海舟らが、西洋式海軍と国際情勢への理解を深めなければならない現実を映す同時代の事件だった。 |
| 咸臨丸の太平洋横断 | 1860年2月10日 | 7歳 | 日米修好通商条約の批准書交換使節を護衛するため、咸臨丸が浦賀を出航し、サンフランシスコへ到達した。勝海舟は指揮官、木村芥舟は軍艦奉行として乗船した。 小野友五郎、福澤諭吉、通訳の中浜万次郎、米海軍のブルックらも参加。日本の船として初の太平洋往復航海となり、勝はアメリカ社会を視察した。 |
| 軍艦奉行並への就任 | 1862年 | 10歳 | 幕政改革により勝海舟が軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並に任命され、幕府海軍の中枢へ復帰した。 将軍徳川家茂の上洛に随行するなかで、大坂湾周辺の港湾を調査。神戸を国際貿易と海軍教育の拠点にする構想を家茂へ説き、海軍操練所設置の許可を得た。 |
| 坂本龍馬の入門 | 1863年 | 11歳 | 土佐藩を脱藩した坂本龍馬が、松平春嶽や大久保一翁らの紹介を得て勝海舟を訪ねた。龍馬が勝を斬る目的で面会したという有名な話もあるが、成立過程には異説がある。 龍馬は勝の開国論と海軍構想に共鳴して門人となり、海軍塾や神戸海軍操練所の設立・運営を助けた。 |
| 神戸海軍操練所の設置 | 1863年 | 11歳 | 勝海舟の提案により、幕府が神戸に海軍操練所を設けた。勝は頭取として、幕臣だけでなく坂本龍馬ら諸藩・脱藩の若者も受け入れ、航海術や海軍技術の教育を目指した。 勝の私塾である海軍塾とも密接に関係し、近代海軍と通商による国家形成を構想する人材交流の拠点となった。 |
| 勝海舟と西郷隆盛の初会談 | 1864年10月 | 12歳 | 第一次長州征討をめぐる政局のなか、西郷隆盛が大坂で勝海舟と会談した。勝は幕府だけで国政を担うことの限界や、雄藩が協力する新たな政治構想を語った。 西郷は勝の見識を高く評価し、大久保利通への書簡に強い印象を記した。この出会いが、後の江戸城開城交渉における相互理解の基礎となった。 |
| 軍艦奉行罷免と操練所閉鎖 | 1864年 | 12歳 | 神戸海軍操練所に反幕府的な志士も集まっていると疑われ、勝海舟は軍艦奉行を罷免されて江戸で蟄居した。 操練所も閉鎖され、坂本龍馬ら門人は薩摩藩などの支援を受けて新たな活動へ移った。勝が構想した藩を越えた海軍教育は中断したが、そこで形成された人脈は幕末政局に影響を残した。 |
| 軍艦奉行への復帰 | 1866年 | 14歳 | 第二次長州征討で幕府軍が苦戦するなか、勝海舟は軍艦奉行に復帰した。将軍徳川家茂の死去もあり、幕府は戦争継続と停戦の判断を迫られていた。 勝は長州藩との交渉役を命じられ、単なる軍事的征服ではなく、内戦を終わらせて国内の分裂を避ける方針で交渉に臨んだ。 |
| 宮島停戦談判 | 1866年 | 14歳 | 勝海舟が幕府代表として安芸国宮島へ赴き、長州藩の広沢真臣・井上馨らと第二次長州征討の停戦を交渉した。 将軍家茂の死去を受けた休戦で合意したが、幕府側の方針変更や勅命との関係で勝は不信を深め、役職を辞した。幕府の軍事的・政治的威信低下を示す出来事でもあった。 |
| 鳥羽・伏見の戦い | 1868年1月27日 | 15歳 | 旧幕府軍と新政府軍が京都南郊で衝突し、旧幕府側が敗北した。徳川慶喜は大坂城から軍艦開陽丸で江戸へ戻り、上野寛永寺で恭順・謹慎した。 新政府軍の東征と江戸総攻撃が現実化すると、勝海舟は内戦の拡大を避け、慶喜の助命と徳川家存続を実現する交渉の中心となった。 |
| 陸軍総裁就任と江戸防衛・和平準備 | 1868年2月 | 16歳 | 勝海舟が旧幕府の陸軍総裁に起用され、新政府軍への対応を任された。小栗忠順らの抗戦論に対し、勝は恭順と和平を主張した。 交渉が決裂した場合に備えて江戸市民の避難、艦船の移動、市街への放火などの防衛策も検討したとされる一方、新政府側へ書簡を送り、総攻撃回避の道を探った。 |
| 山岡鉄舟・西郷隆盛会談 | 1868年4月1日 | 15歳 | 勝海舟の方針を受けた山岡鉄舟が、官軍の包囲を越えて駿府へ赴き、西郷隆盛と会談した。山岡は徳川慶喜の恭順意思を伝え、江戸城開城の条件を協議した。 慶喜を備前藩へ預ける条件には強く反対し、西郷から一定の譲歩を得た。この予備交渉が、続く勝と西郷の直接会談を成立させる基礎となった。 |
| 勝海舟・西郷隆盛会談 | 1868年4月5日 | 15歳 | 江戸総攻撃の直前、旧幕府代表の勝海舟と新政府軍参謀の西郷隆盛が江戸で会談した。徳川慶喜の処遇、江戸城と武器・軍艦の引き渡しなどを協議した。 山岡鉄舟による予備交渉やイギリス公使パークスの意向なども背景となり、予定されていた総攻撃は中止された。江戸市街での大規模戦闘を避ける決定的な交渉となった。 |
| 江戸城無血開城 | 1868年5月3日 | 15歳 | 合意に基づき、旧幕府が江戸城を新政府へ戦闘なしで引き渡した。徳川慶喜は水戸で謹慎し、徳川宗家の存続も認められた。 人口の集中する江戸が戦火を免れたことから「無血開城」と呼ばれる。勝海舟と西郷隆盛の交渉が象徴的に語られるが、山岡鉄舟、旧幕府・新政府の諸担当者、外国公使らも過程に関わった。 |
| 徳川家の静岡移封と旧幕臣救済 | 1868年 | 16歳 | 徳川宗家が駿河・遠江など70万石の静岡藩へ移され、多数の旧幕臣と家族が移住した。俸禄を失う者も多く、深刻な生活問題が生じた。 勝海舟は新政府と徳川家の間を調整し、旧幕臣の移住、就職、授産を支援した。牧之原台地などでの茶畑開墾も進められ、静岡茶の発展へつながった。 |
| 海軍卿就任 | 1873年10月25日 | 20歳 | 明治政府に出仕していた勝海舟が参議兼海軍卿に就任した。幕府海軍の育成に携わった経験を買われた人事だった。 しかし新政府の薩長中心の政治や台湾出兵などに批判的で、実務の多くを部下に委ねたとされる。1875年に参議を辞し、元老院議官にも任命されたが短期間で辞任した。 |
| 伯爵授爵と枢密顧問官就任 | 1887年5月9日 | 34歳 | 勝海舟は華族令により伯爵を授けられ、翌年には新設された枢密院の枢密顧問官となった。旧幕府の最高幹部経験者として明治国家の顕職に列した。 一方で政府の対外政策を批判し、日清戦争にも反対した。著述や談話を通じて幕末史を回顧しながら、徳川家や旧幕臣の名誉・生活を守る活動を続けた。 |
| 日清戦争 | 1894年8月1日 | 41歳 | 朝鮮で東学党の指導する農民反乱(甲午農民戦争)が起きると日本と清が出兵し、朝鮮をめぐる対立から戦争へ入った。戦局は日本優勢で進み、1895年4月17日の下関条約によって清は朝鮮の独立を認め、台湾などを日本へ割譲した。 勝海舟は開戦に反対し、戦勝に沸く人々に、欧米の植民地政策に安易に追従する愚かさを説き、清とは争うのではなく共に欧米に対抗すべきだと主張した。幕末に海防と開国を唱えた勝が、近代日本の対外膨張にも無条件には同調しなかったことを示す晩年の重要な論点である。 |
| 徳川慶喜の参内 | 1898年3月2日 | 45歳 | 長く謹慎と隠退の生活を送った徳川慶喜が皇居へ参内し、明治天皇に拝謁した。朝敵とされた最後の将軍が公に赦されたことを示す象徴的な出来事となった。 勝海舟は維新後一貫して慶喜の赦免と名誉回復を政府へ働きかけており、この拝謁の実現を自らの晩年の重要な成果と受け止めた。 |
| 勝海舟の死去 | 1899年1月19日 | 46歳 | 勝海舟が東京・赤坂氷川の自邸で脳溢血のため死去した。満75歳。「コレデオシマイ」と言い残したという逸話が知られる。 幕府海軍の建設、咸臨丸渡米、江戸城開城、旧幕臣救済に関する多くの記録と談話を残した。『氷川清話』は、吉本襄が勝の談話をまとめ、勝の生前である1897年に刊行した談話集で、政治・外交や同時代の人物に対する率直な見解を後世へ伝えている。墓は洗足池公園にあり、その隣には勝が自費で建てた西郷南洲(隆盛)の留魂碑が建っている。 |