勝海舟の時代 年表
1840年、アヘン戦争:その時何歳?
| 名前 | 年月日 | 年齢 | 説明 |
|---|---|---|---|
| 明治天皇 | 1852年11月3日 | (12)歳 | 第122代天皇。京都で孝明天皇の皇子として生まれ、幕末の政変のさなかに践祚した。王政復古、五箇条の御誓文、東京への移転を経て、近代国家形成の時代の天皇となった。 勝海舟は明治政府で海軍卿や枢密顧問官を務め、旧幕臣の立場から新国家に関与した。また徳川慶喜の赦免と名誉回復を働きかけ、1898年には慶喜の明治天皇への拝謁が実現した。 |
| 徳川家茂 | 1846年7月17日 | (6)歳 | 江戸幕府第14代将軍。文久の改革後、勝海舟を軍艦奉行並・軍艦奉行に登用し、幕府海軍の整備を進めた。 勝は家茂の上洛に随行した際、神戸に海軍操練所を設ける必要性を説いて認可を得た。身分や藩を越えて人材を集めた操練所は一時閉鎖されたが、近代海軍人材の育成に影響を残した。家茂は第二次長州征討中、大坂城で病没した。 |
| 徳川慶喜 | 1837年10月28日 | 3歳 | 江戸幕府第15代将軍。第二次長州征討時、勝海舟を軍艦奉行に復帰させ、宮島での停戦交渉を命じた。大政奉還後、鳥羽・伏見の戦いで敗れて江戸へ退き、恭順を表明した。 勝は慶喜の生命と徳川家存続を守るため新政府側と交渉した。明治期にも慶喜の名誉回復や赦免に尽力した。 |
| 榎本武揚 | 1836年10月5日 | 4歳 | 幕臣・海軍軍人。オランダ留学で海軍技術と国際法を学び、開陽丸で帰国した。戊辰戦争では新政府へ一部の艦艇を引き渡した後、残る旧幕府艦隊を率いて蝦夷地へ渡った。 箱館戦争後、勝海舟らの助命運動もあって処刑を免れた。のちに明治政府へ出仕し、海軍卿、駐露公使、外務大臣などを歴任。勝とは旧幕臣の処遇や徳川家支援でも関係を持った。 |
| 山岡鉄舟 | 1836年7月23日 | 4歳 | 幕臣・剣術家。高橋泥舟、勝海舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。徳川慶喜の恭順意思を伝える使者として、官軍の包囲を抜けて駿府へ赴いた。 西郷隆盛との会談で江戸城開城の基本条件を協議し、その結果を勝へ持ち帰った。勝と西郷の最終交渉に先立つ重要な役割を果たした。維新後は明治天皇の侍従を務めた。 |
| 坂本龍馬 | 1836年1月3日 | 4歳 | 土佐藩出身の志士。脱藩後に勝海舟を訪ね、その開国論と海軍構想に共鳴して門人となった。神戸海軍操練所の運営を助け、海舟を「日本第一の人物」と姉への手紙で評した。 操練所閉鎖後は亀山社中・海援隊を率い、薩長同盟の仲介や船舶交易に関与。大政奉還後の1867年、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲撃され、龍馬は当日、中岡は二日後に死亡した。 |
| 高橋泥舟 | 1835年3月15日 | 5歳 | 幕臣・槍術家。山岡鉄舟の義兄で、勝海舟・鉄舟とともに「幕末の三舟」と称される。講武所教授方や遊撃隊頭取を務め、将軍徳川慶喜から厚い信任を受けた。 戊辰戦争では慶喜の警護のため江戸を離れられず、勝の推薦により義弟の鉄舟が駿府への使者となった。維新後は官職に就かず、旧主への節義を守って書画などに親しんだ。 |
| 福澤諭吉 | 1835年1月10日 | 5歳 | 中津藩士・教育者。咸臨丸の遣米航海に木村芥舟の従者として参加し、勝海舟らとサンフランシスコを訪れた。のちに慶應義塾を創設し、西洋の制度や思想を紹介した。 勝とは同じ航海の経験者だが、幕臣として明治政府に仕え旧主徳川家を支えた勝の姿勢を『瘠我慢の説』で批判した。勝は反論を控え、文章の公表を了承した。 生誕地は父の赴任先だった摂津国大坂(大阪府)だが、一般に「出身」とされるのは父の主家・豊後国中津藩(大分県中津市)である。 |
| 孝明天皇 | 1831年7月22日 | 9歳 | 第121代天皇。幕末の開国過程で外国勢力を強く警戒し、攘夷の実行を幕府に求める一方、妹の和宮親子内親王を将軍徳川家茂へ降嫁させ、公武合体による政治秩序の安定を図った。 第二次長州征討では家茂の死後に征討停止を命じ、幕府代表として勝海舟が宮島で長州藩との停戦交渉に臨む背景となった。急逝後、皇子の明治天皇が践祚し、政局は王政復古へ大きく動いた。 |
| 木村芥舟 | 1830年2月27日 | 10歳 | 幕臣・軍艦奉行。遣米使節の護衛艦として派遣された咸臨丸では軍艦奉行として乗船し、勝海舟は艦長格の役割を担った。 航海中は勝やアメリカ海軍士官ブルックらとともに船の運航と規律維持に当たり、サンフランシスコへ到達した。維新後は新政府への出仕を断り、隠居して『三十年史』など幕末の記録を残した。 |
| 西周 | 1829年3月7日 | 11歳 | 津和野藩出身の思想家・幕臣。オランダ留学で法学、哲学、経済学などを学び、帰国後は開成所教授や徳川慶喜の政治顧問を務めた。 勝海舟らと同じく西洋知識を幕政改革へ生かそうとし、幕府の新たな国家制度案を構想した。維新後は明治政府で軍制・教育制度の整備に関わり、「哲学」など多くの学術用語を定着させた。 |
| 松平春嶽 | 1828年10月10日 | 12歳 | 福井藩主・幕末四賢侯の一人。阿部正弘の幕政に参加し、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推した。文久の改革で政事総裁職となり、横井小楠らを登用した。 勝海舟の海軍構想を支持し、坂本龍馬が勝へ入門する際にも関係を取り持った。王政復古後は新政府の議定となり、戊辰戦争期には徳川家への寛大な処置を求めた。 |
| 西郷隆盛 | 1828年1月23日 | 12歳 | 薩摩藩士・明治政府指導者。1864年に大坂で勝海舟と会談し、その見識を高く評価した。戊辰戦争では東征軍の参謀として江戸総攻撃の指揮に当たった。 山岡鉄舟との事前交渉を経て、勝と会談し江戸城開城の条件に合意。大規模な市街戦を回避した。明治政府では参議・陸軍大将となったが、のちに私学校生徒らに推されて挙兵し、西南戦争の末に城山で死亡した。 |
| 小栗忠順 | 1827年7月16日 | 13歳 | 幕臣・勘定奉行。遣米使節として渡米し、帰国後は横須賀製鉄所建設、軍制・財政改革など幕府の近代化を推進した。 戊辰戦争では新政府軍への抗戦策を唱え、恭順と江戸城開城を進める勝海舟と対立した。罷免後に上野国へ退いたが、新政府軍に捕らえられ、十分な取り調べを受けないまま斬首された。 |
| 勝海舟 | 1823年3月12日 | 17歳 | 幕臣・政治家。蘭学と西洋兵学を学び、長崎海軍伝習所に参加した。1860年には咸臨丸で太平洋を横断し、帰国後は軍艦奉行として神戸海軍操練所を整備した。 戊辰戦争では旧幕府側の代表として西郷隆盛と交渉し、江戸城総攻撃を回避した。明治期は海軍卿・枢密顧問官などを務め、徳川慶喜の赦免や旧幕臣の生活支援にも尽力した。 |
| 李鴻章 | 1823年2月15日 | 17歳 | 清末の政治家・外交官。淮軍を組織し、洋務運動の中心人物として軍需工業、電信、海運、北洋艦隊などの近代化を進めた。勝海舟と同じ1823年生まれで、列強の圧力を受ける東アジアで、海軍と通商による自国強化を模索した同時代人に当たる。 日清戦争では、淮軍と北洋艦隊では勝ち目がないとして開戦に反対したが、戦争は始まり、講和では清国全権として下関条約に調印した。勝海舟も開戦に反対し、清とは争うのではなく共に欧米に対抗すべきだと主張しており、両国とも開戦に慎重だった人物が、それぞれの立場で戦争とその帰結に向き合った。 |
| 阿部正弘 | 1819年12月3日 | 21歳 | 備後福山藩主・幕府老中首座。ペリー来航に際し、諸大名や幕臣に広く意見を求めて開国を決断した。人材登用と海防強化を進め、長崎海軍伝習所や洋学所を設置した。 勝海舟が提出した海防意見書を評価して登用し、海舟が海軍の道へ進む契機を作った。阿部の改革路線は、その後の幕府海軍建設の基礎となった。 |
| 大久保一翁 | 1818年1月5日 | 22歳 | 幕臣・政治家。外国奉行、大目付、政事総裁などを歴任し、早くから幕府の改革と諸侯連合的な政治を構想した。 勝海舟の理解者として海軍振興を支え、坂本龍馬が勝を訪ねる際には紹介状を与えた。戊辰戦争期には若年寄・会計総裁として恭順方針に関与。維新後は東京府知事や元老院議官を務めた。 |
| 小野友五郎 | 1817年12月1日 | 23歳 | 幕臣・測量家・海軍技術者。長崎海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸の航海長として勝海舟らと太平洋を横断した。航海技術に優れ、実務面で遠洋航海を支えた。 帰国後は軍艦購入や横須賀製鉄所建設の調査で再び渡米。維新後も測量・土木分野で活動し、鉄道敷設や国土測量など近代日本の技術事業に関わった。 |
| 佐久間象山 | 1811年3月22日 | 29歳 | 松代藩士・思想家で、儒学、蘭学、兵学を修めた。海防の必要性を説き、西洋技術を取り入れる「東洋道徳、西洋芸術」の考えを唱えた。 勝海舟は象山のもとで西洋兵学を学び、象山は勝の号「海舟」の由来となる書を贈った。象山は海舟の妹・順子と結婚して義弟にもなった。開国・公武合体を説いたが、京都で尊攘派に暗殺された。 |
| 横井小楠 | 1809年9月22日 | 31歳 | 熊本藩士・思想家。福井藩主松平春嶽の政治顧問となり、開国、交易、海軍創設、幕政改革を説いた。勝海舟とは幕府の海軍政策や公共的な政治構想を共有した。 神戸海軍操練所の構想にも影響を与え、坂本龍馬らにも思想的影響を及ぼした。維新後は新政府の参与となったが、開明的な政策を敵視する攘夷派に京都で暗殺された。 |
| 島津斉彬 | 1809年4月28日 | 31歳 | 薩摩藩主。集成館事業を進め、造船、反射炉、紡績など西洋技術の導入に取り組んだ。開国と海防強化を唱え、阿部正弘の幕政改革を支えた。 勝海舟とは直接の協働期間は長くないが、雄藩を越えた海軍創設という構想で通じる先駆者だった。斉彬が育成した西郷隆盛ら薩摩藩の人材は、後に勝と幕末政局で深く関わった。 |
| 勝小吉 | 1802年2月17日 | 38歳 | 幕臣で勝海舟の父。旗本の家に生まれ、喧嘩や放浪を繰り返す無頼な青年期を送った。家督を継いだ後も役職には恵まれず、隠居後に自伝『夢酔独言』を著した。 同書には江戸の下級武士社会と自身の失敗が率直に記されている。海舟は父の豪胆さや身分にとらわれない気質の影響を受けたとされ、文章にも共通点が指摘される。 |