マンハッタン計画 年表
レオナ・ウッズ:人物年表
| 名前 | 年月日 | 年齢 | 説明 |
|---|---|---|---|
| アインシュタイン=シラード書簡の作成 | 1939年8月2日 | 19歳 | レオ・シラードらが起草し、アルベルト・アインシュタインが署名した書簡がフランクリン・ルーズベルト米大統領宛てに作成された。ナチス・ドイツが核兵器を開発する危険性を警告し、アメリカ政府にウラン研究への支援と原爆開発への着手を促す内容であり、これがマンハッタン計画発足の最初の契機となった。 |
| ウラン諮問委員会の初会合 | 1939年10月21日 | 20歳 | アインシュタイン=シラード書簡を受けたルーズベルト大統領の指示により設立されたウラン諮問委員会の初めての会合が開催された。この会合にはシラード、テラー、ウィグナーらが出席し、ウランの連鎖反応に関する研究に対して政府から初めての資金提供(6000ドル)が行われることが決定した。 |
| プルトニウムの発見と化学的分離 | 1941年2月23日 | 21歳 | カリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグを中心とする研究チームが、ウランに重陽子を衝突させることで生成された新元素(プルトニウム)の化学的分離に初めて成功した。この発見により、ウラン235の濃縮とは別に、原子炉でプルトニウムを生産して原子爆弾の材料とする新たな道が開かれた。 |
| 科学研究開発局(OSRD)の設立 | 1941年6月28日 | 21歳 | ヴァネヴァー・ブッシュの提案に基づき、大統領令により科学研究開発局(OSRD)が設立され、彼自身が長官に就任した。これにより、国防研究委員会(NDRC)の下で行われていたウラン研究などの軍事科学研究が、より大規模な予算と強力な権限を持つOSRDの管轄下へと移り、国家的なプロジェクトへ格上げされた。 |
| ルーズベルト大統領による原爆開発の承認 | 1941年10月9日 | 22歳 | イギリスのMAUD委員会による「原爆の製造は技術的に可能」とする報告書を受けたヴァネヴァー・ブッシュが、ルーズベルト大統領に直接面会して説明を行った。この会談で大統領はアメリカ独自の原子爆弾開発プログラムの推進を正式に承認し、研究を加速させるための最高政策グループを設置した。 |
| マンハッタン工兵地区の設立 | 1942年8月13日 | 23歳 | 原爆開発が研究段階から軍の主導する製造段階へと移行する中、アメリカ陸軍工兵隊の下に「マンハッタン工兵地区」が正式に設立された。当初はニューヨーク市マンハッタン区に本部が置かれたためこの名称が付けられ、後にプロジェクト全体のコードネーム「マンハッタン計画」として定着することとなった。 |
| レズリー・グローヴスの計画総責任者就任 | 1942年9月17日 | 23歳 | ペンタゴン(国防総省本庁舎)の建設などで卓越した管理能力を評価されていた陸軍のレズリー・グローヴス准将が、マンハッタン計画の軍事部門トップに任命された。彼は計画全体の実質的な総責任者として、予算獲得、資材調達、建設工事の指揮、人員配置、そして厳格な機密保持体制の確立を強力に推し進めた。 |
| オークリッジ・サイトの用地取得承認 | 1942年9月19日 | 23歳 | グローヴス将軍の指示のもと、テネシー州東部のクリントン(後のオークリッジ)において約5万2000エーカーの広大な土地の取得が承認された。この「サイトX」と呼ばれた秘密都市には、ウラン濃縮のための巨大な電磁分離プラント(Y-12)や気体拡散プラント(K-25)、X-10黒鉛炉などが極秘裏に建設された。 |
| ロスアラモス研究所の建設地決定 | 1942年11月25日 | 23歳 | オッペンハイマーとグローヴス将軍による視察の結果、ニューメキシコ州の孤立した台地であるロスアラモスが、原子爆弾の設計・組み立てを行う「プロジェクトY」の拠点に選定された。既存の全寮制学校の施設を接収して直ちに建設が開始され、国内外から集められたトップクラスの科学者たちが移り住んだ。 |
| シカゴ・パイル1号による初の臨界到達 | 1942年12月2日 | 23歳 | シカゴ大学のスカッシュコート跡に建設された実験用原子炉「シカゴ・パイル1号(CP-1)」において、エンリコ・フェルミのチームが世界初となる人工的な核分裂連鎖反応(臨界)の持続に成功した。これにより、プルトニウムを大量生産するための原子炉実用化に向けて決定的な理論的裏付けが得られた。 |
| ケベック協定の調印 | 1943年8月19日 | 24歳 | カナダで開催された会談において、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が「ケベック協定」に署名した。これにより、米英両国が核兵器開発に関する情報を共有し、協力して研究を進めることが公式に合意され、イギリスからジェームズ・チャドウィックらの科学者団がロスアラモス等へ派遣された。 |
| X-10黒鉛炉の臨界到達 | 1943年11月4日 | 24歳 | オークリッジに建設された世界初の本格的なプルトニウム生産用実証炉である「X-10黒鉛炉」が初臨界に達した。シカゴ・パイル1号の成功を基に設計されたこの空冷式原子炉は、後に建設されるハンフォードの巨大な水冷式生産炉のプロトタイプとして機能し、ロスアラモスの研究用として初期のプルトニウムを供給した。 |
| ハンフォードB炉の初臨界 | 1944年9月26日 | 25歳 | ワシントン州ハンフォード・サイトに建設された世界初の大規模プルトニウム生産炉「B炉」が臨界に達した。稼働直後にキセノン135の蓄積による反応停止という予期せぬトラブル(毒作用)に見舞われたが、予備の燃料管を用いて反応度を上げることで克服し、長崎型原爆用の大量のプルトニウム生産を実現した。 |
| 第2回目標検討委員会の開催 | 1945年5月10日 | 25歳 | ロスアラモスにおいてオッペンハイマーや軍高官らによる第2回目標検討委員会が開かれ、原爆の投下目標となる日本の都市が議論された。その結果、京都、広島、横浜、小倉などが候補としてリストアップされ、爆風の威力を最大化するための投下高度や、視界良好な天候での目視投下といった具体的な運用方針が策定された。 |
| トリニティ実験(人類初の核実験) | 1945年7月16日 | 25歳 | ニューメキシコ州アラモゴード爆撃演習場(現在のホワイトサンズ・ミサイル実験場)において、人類史上初となる核実験「トリニティ」が実施された。インプロージョン(爆縮)方式のプルトニウム型原子爆弾「ガジェット」が起爆され、TNT火薬換算で約2万1000トンに相当する爆発力を記録して実験は成功を収めた。 |
| ポツダム宣言の発出 | 1945年7月26日 | 25歳 | トルーマン米大統領、チャーチル英首相、蔣介石中華民国国民政府主席の共同声明として、日本の全軍隊の無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が発出された。トルーマンはトリニティ実験成功の報告を受けた上でこの会談に臨んでおり、宣言が日本政府に黙殺されたことが原子爆弾投下を最終決定する口実の一つとなった。 |
| 広島への原子爆弾投下 | 1945年8月6日 | 25歳 | B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」によって、ウラン235を用いたガンバレル型原子爆弾「リトルボーイ」が広島市に投下された。人類史上初めて実戦で使用された核兵器であり、都市の中心部で炸裂した爆弾は甚大な熱線と爆風、そして放射線をもたらし、数十万人の市民が死傷して街は壊滅的な被害を受けた。 |
| 長崎への原子爆弾投下 | 1945年8月9日 | 26歳 | B-29爆撃機「ボックスカー」によって、プルトニウムを用いたインプロージョン型原子爆弾「ファットマン」が長崎市に投下された。当初の目標は小倉市であったが、視界不良により第二目標の長崎に変更された。爆発による被害は極めて甚大であり、広島と合わせた原爆の惨禍は日本の降伏を決定づける要因の一つとなった。 |
| スマイス報告書の公開 | 1945年8月12日 | 26歳 | プリンストン大学の物理学者ヘンリー・スマイスが執筆した、マンハッタン計画の公式な歴史と科学的・技術的成果をまとめた「スマイス報告書」が一般に向けて公開された。これにより、最高機密であった計画の全容と原子爆弾開発の基礎的な科学的メカニズムが初めて世界に公表され、社会に大きな衝撃を与えた。 |
| 原子力委員会(AEC)への引き継ぎ | 1947年1月1日 | 27歳 | 制定されたマクマホン法(原子力法)に基づき、文民統制の政府機関である原子力委員会(AEC)が正式に発足した。これに伴い、マンハッタン計画のすべての施設、人員、資産、および核兵器の管轄権が軍からAECへと移管され、第二次世界大戦を動かした巨大な極秘軍事プロジェクトは事実上の終結を迎えた。 |