マンハッタン計画 年表
1939年、アインシュタイン=シラード書簡の作成:その時何歳?
| 名前 | 年月日 | 年齢 | 説明 |
|---|---|---|---|
| レオナ・ウッズ | 1919年8月9日 | 19歳 | シカゴ大学における世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」の実験に立ち会った唯一の女性物理学者。フェルミの下で働き、中性子検出器の構築などを担当した。ハンフォード・サイトにも赴き、原子炉稼働初期のトラブルシューティングにおいて、キセノン135による中性子吸収(毒作用)の特定に大きく貢献した。 |
| リチャード・ファインマン | 1918年5月11日 | 21歳 | 若くしてロスアラモス研究所の理論部門に配属され、ハンス・ベーテの下で原爆開発の計算業務などを担当した。計算機システムの運用や、ウラン濃縮施設における臨界事故防止の安全基準の策定などで貢献した。戦後は量子電磁力学の発展に寄与しノーベル物理学賞を受賞、物理学の啓蒙にも尽力した。 |
| 呉健雄 | 1912年5月31日 | 27歳 | 中国出身の女性物理学者。マンハッタン計画ではコロンビア大学でウラン濃縮のための気体拡散法の研究に従事した。また、彼女の過去の核分裂に関する研究データが、ハンフォードのB炉で発生した連鎖反応停止の原因(キセノン135による中性子吸収)を解明する決定的な手がかりとなった。 |
| グレン・シーボーグ | 1912年4月19日 | 27歳 | アメリカの化学者で、プルトニウムをはじめとする複数の超ウラン元素を発見した。マンハッタン計画ではシカゴ大学冶金研究所でプルトニウムの化学分離法の開発を主導し、原爆材料としてのプルトニウムの大量生産に道を開いた。戦後は原子力委員会の委員長を務め、原子力平和利用の推進に尽力した。 |
| クラウス・フックス | 1911年12月29日 | 27歳 | ドイツ出身の理論物理学者。イギリス代表団の一員としてロスアラモスに派遣され、爆縮レンズに関する重要な理論計算を担った。しかし後に、原爆の機密情報をソ連に流していたスパイであったことが発覚し、ソ連の核武装を数年早めたとされる。逮捕後は有罪判決を受け服役した。 |
| ルイス・アルヴァレズ | 1911年6月13日 | 28歳 | アメリカの物理学者。ロスアラモス研究所で、爆縮レンズを正確なタイミングで起爆するための特殊な雷管(ブリッジワイヤー雷管)の開発を担当した。広島への原爆投下時には観測機グレート・アーティスト号に搭乗し、爆発の威力を計測する特殊な測定器の運用を行った。後にノーベル物理学賞を受賞。 |
| エドワード・テラー | 1908年1月15日 | 31歳 | ハンガリー出身の理論物理学者。ロスアラモス研究所で原爆開発に携わる一方で、当初からより強力な熱核兵器(水素爆弾)の開発に強い関心を持ち研究を進めた。戦後は水爆開発を強力に推進して「水爆の父」と呼ばれるようになり、オッペンハイマーの公職追放事件では彼に不利な証言をしたことで知られる。 |
| ハンス・ベーテ | 1906年7月2日 | 33歳 | ドイツ出身の理論物理学者。オッペンハイマーに請われてロスアラモス研究所の理論部門の責任者に就任し、原爆の臨界質量や爆発効率の計算、爆縮方式の理論的解明などを指揮して開発の成功に大きく貢献した。恒星のエネルギー生成機構の解明などで知られ、後にノーベル物理学賞を受賞した。 |
| J・ロバート・オッペンハイマー | 1904年4月22日 | 35歳 | 理論物理学者であり、マンハッタン計画においてロスアラモス研究所の初代所長を務めた。「原爆の父」として知られる。トリニティ実験を成功させ、原子爆弾の開発を主導したが、戦後は水爆開発に反対したことで公職から追放された。後に名誉回復を果たし、戦後の物理学界に多大な影響を与え続けた。 |
| ジョン・フォン・ノイマン | 1903年12月28日 | 35歳 | ハンガリー出身の天才的な数学者。ロスアラモス研究所でプルトニウム型原爆に必須となる爆縮レンズの設計計算を担当した。流体力学の複雑な計算モデルを構築し、衝撃波が球体に向かって均等に収束する理論を実証することで、ファットマン型の原爆開発を成功に導いた。 |
| エンリコ・フェルミ | 1901年9月29日 | 37歳 | イタリア出身の物理学者。シカゴ大学において世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を開発し、人類初の人工的な核分裂連鎖反応を成功させた。この成果はマンハッタン計画におけるプルトニウム生産の基礎となった。ロスアラモス研究所でも重要なコンサルタントとして活躍し、中性子の研究などで貢献した。 |
| アーネスト・ローレンス | 1901年8月8日 | 37歳 | サイクロトロンの発明によりノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者。マンハッタン計画では、オークリッジ国立研究所におけるウランの電磁同位体分離法(カルトロン)の開発を主導し、広島に投下された原爆のウラン濃縮に貢献した。オッペンハイマーをロスアラモス研究所長に推薦した人物でもある。 |
| ジョージ・キスティアコフスキー | 1900年11月18日 | 38歳 | ウクライナ出身の物理化学者で爆薬の専門家。ロスアラモス研究所でプルトニウム型原爆に用いる爆縮レンズの開発を指揮した。高度な精度の高性能爆薬を鋳造して組み合わせる極めて困難な技術的課題を克服し、トリニティ実験および長崎に投下されたファットマンの起爆装置を完成させた。 |
| レオ・シラード | 1898年2月11日 | 41歳 | ハンガリー出身の物理学者。核分裂連鎖反応の概念をいち早く着想し、アインシュタインに署名をもらった書簡をルーズベルト大統領に送り、マンハッタン計画発足の契機を作った。シカゴ大学でフェルミと共に原子炉開発に貢献したが、後に原爆の日本投下に反対し、科学者の社会的責任を強く訴える活動を行った。 |
| レズリー・グローヴス | 1896年8月17日 | 42歳 | アメリカ陸軍の工兵将校であり、マンハッタン計画の全体を統括した責任者。ペンタゴンの建設を指揮した実績を評価され、同計画の責任者に抜擢された。各地のウラン濃縮施設やプルトニウム生産拠点、ロスアラモス研究所の設立と運営を強力に推進し、計画を短期間で成功に導く上で不可欠な役割を果たした。 |
| ジェームス・B・コナント | 1893年3月26日 | 46歳 | ハーバード大学学長を務めた化学者。国防研究委員会(NDRC)の委員長としてブッシュを支え、マンハッタン計画の科学的な推進役を担った。グローヴスやオッペンハイマーと密接に連携し、計画の主要な政策決定に関与。トリニティ実験にも立ち会うなど、計画全体の中枢として活動した。 |
| アーサー・コンプトン | 1892年9月10日 | 46歳 | コンプトン効果の発見でノーベル賞を受賞した物理学者。マンハッタン計画では、シカゴ大学に冶金研究所(メタ・ラボ)を設立してプルトニウム生産を統括し、フェルミの原子炉開発を支援した。ロスアラモスへのプルトニウム供給を担うハンフォード・サイトの設計と建設においても重要な役割を担った。 |
| ジェームズ・チャドウィック | 1891年10月20日 | 47歳 | 中性子の発見によりノーベル物理学賞を受賞したイギリスの物理学者。マンハッタン計画において、イギリスの原爆開発計画(チューブ・アロイズ)代表団のリーダーとしてロスアラモスに赴任した。グローヴスら米軍関係者と良好な関係を築き、米英の協力体制を円滑に進める役割を果たした。 |
| ヴァネヴァー・ブッシュ | 1890年3月11日 | 49歳 | 科学研究開発局(OSRD)長官として、初期のアメリカの原爆開発プログラムを組織・統括した。ルーズベルト大統領の重要な科学顧問を務め、軍と科学者の橋渡し役としてマンハッタン計画への莫大な予算承認や政治的支援を取り付ける上で不可欠な役割を果たした。戦後の科学技術政策の基礎も築いた。 |
| ニールス・ボーア | 1885年10月7日 | 53歳 | 量子力学の確立に貢献したデンマークのノーベル賞物理学者。ナチスの迫害を逃れてアメリカへ渡り、ニコラス・ベイカーという偽名でロスアラモス研究所の顧問を務めた。若手研究者たちの精神的支柱として議論を交わし、原爆の設計プロセスにおいて重要な助言を与えた。 |