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森蘭丸
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1565年 |
0歳
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森可成の子で、名は成利。織田信長の小姓として近侍し、使者や取次など側近としての実務を担った。美濃の金山城を与えられたとされ、単なる少年の寵童という後世のイメージだけでは捉えきれない立場にあった。本能寺の変では弟たちとともに信長の側にあり、明智軍と戦って討死した。信長との逸話には後世の創作も多いため、同時代史料に基づく側近としての役割と区別して考える必要がある。 |
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織田信雄
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1558年 |
(7)歳
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織田信長の次男。北畠具房の養子となって伊勢の北畠氏を継ぎ、のちに織田姓へ復した。本能寺の変後は清洲会議や織田家の後継争いに関わり、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と結んで豊臣秀吉に対抗した。その後は改易と復帰を経験し、江戸時代には大名として家を残した。判断力を低く見る逸話も多いが、激しい政権交代を生き延びた政治的適応力にも注目できる。 |
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織田信孝
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1558年 |
(7)歳
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織田信長の三男で、伊勢の神戸具盛の養子となった武将。四国攻めの総大将に任じられたが、出陣直前に本能寺の変が起こり、羽柴秀吉らと明智光秀を討った。清洲会議後は信長の孫・三法師を擁して岐阜城に入り、柴田勝家と結んで秀吉に対抗した。しかし賤ヶ岳の戦いで勝家方が敗れると孤立し、尾張で自害した。信長死後の織田家分裂を示す中心人物の一人である。 |
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織田信忠
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1557年 |
(8)歳
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織田信長の嫡男で、織田政権の後継者。父から家督と岐阜城を譲られ、長篠の戦い、岩村城攻略、松永久秀討伐、甲州征伐などで軍を率いた。武田氏滅亡後には甲斐・信濃方面の支配を任され、後継体制が整いつつあった。本能寺の変の際は京都の妙覚寺から二条御所へ移って明智軍と戦い、自害した。父と同日に没したことが、織田政権の継承を不安定にした。 |
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お市の方
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1547年 |
(18)歳
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織田信長の妹として知られる女性。近江の浅井長政に嫁ぎ、織田氏と浅井氏の同盟を結ぶ役割を担った。両家の対立後、浅井氏滅亡を経て織田方へ戻り、本能寺の変後には柴田勝家と再婚した。賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉に敗れると、北ノ庄城で勝家とともに死去した。娘の茶々、初、江は豊臣・京極・徳川の各家に関わり、近世政治に大きな影響を与えた。 |
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武田勝頼
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1546年 |
(19)歳
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武田信玄の子で、諏訪氏を継いだ後に武田家の当主となった戦国大名。父の死後も東美濃や遠江へ攻勢を続けたが、1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗した。その後も領国再建を図ったものの、家臣団の動揺や北条氏との対立に苦しんだ。1582年、織田信長の甲州征伐で諸将の離反が相次ぎ、天目山で自害して武田氏は滅亡した。単純な凡将像は近年見直されつつある。 |
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浅井長政
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1545年 |
(20)歳
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北近江の戦国大名。六角氏から自立して浅井氏の勢力を固め、織田信長の妹・お市の方を妻に迎えて同盟を結んだ。しかし信長が越前の朝倉義景を攻めると、従来から関係の深い朝倉氏を選び、金ヶ崎で信長を挟撃しようとした。その後、姉川の戦いなどを経て追い詰められ、小谷城で自害した。信長の義弟でありながら敵対した経緯は、戦国大名の婚姻同盟と旧来の外交関係の葛藤をよく示している。 |
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顕如
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1543年2月20日 |
(22)歳
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浄土真宗本願寺第11世宗主。大坂の石山本願寺を拠点とし、各地の門徒組織や大名との関係を背景に大きな政治力を持った。織田信長との対立は1570年から約十年に及ぶ石山合戦へ発展し、顕如は朝倉・浅井・武田・毛利などと連携して抗戦した。1580年、正親町天皇の仲介による講和を受け入れ、大坂を退去した。武力だけでなく信仰共同体と広域ネットワークが信長の統一事業に対抗したことを示す人物である。 |
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徳川家康
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1543年1月31日 |
(22)歳
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三河の戦国大名。幼少期を織田氏・今川氏の人質として過ごし、桶狭間の戦い後に今川氏から自立した。1562年頃に織田信長と同盟を結び、姉川や長篠などで共同して戦いながら東方へ領国を拡大した。嫡男信康の処断など、同盟には深刻な緊張も伴った。本能寺の変後は危険な畿内から三河へ帰還し、のちに豊臣政権を経て征夷大将軍となった。信長の最重要同盟者であり、政権の最終的な継承者でもある。 |
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前田利家
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1539年1月15日 |
(26)歳
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尾張出身で、若くして織田信長に仕えた武将。赤母衣衆として活動し、一時は信長の勘気を受けて出仕を停止されたが、戦功を重ねて復帰した。柴田勝家の北陸軍に属し、能登一国を与えられて大名となった。本能寺の変後は勝家と秀吉の間で難しい立場に置かれ、賤ヶ岳後は秀吉に従った。豊臣政権では五大老の一人となり、加賀前田家の基礎を築いた。信長時代から近世大名への移行を体現する人物である。 |
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足利義昭
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1537年12月5日 |
(28)歳
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室町幕府第15代将軍。兄・義輝の死後、諸大名の支援を求め、織田信長に奉じられて1568年に上洛し将軍となった。当初は信長と協調したが、幕府権力の再建を目指すなかで対立を深め、各地の大名や寺社勢力に信長包囲を呼びかけた。1573年に京都から追放された後も将軍職を保持し、毛利氏の庇護下で反信長活動を続けた。信長との関係は、戦国期の将軍権威と新たな武力政権の競合を示している。 |
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豊臣秀吉
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1537年3月17日 |
(28)歳
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尾張出身で、木下藤吉郎、羽柴秀吉を名乗り、織田信長の家臣として頭角を現した。美濃攻略、金ヶ崎の退き口、中国攻めなどで功績を重ね、城持ち大名と方面軍司令官へ昇進した。本能寺の変を知ると毛利氏と講和して引き返し、山崎の戦いで明智光秀を破った。その後、織田家中の争いを制して天下統一を進め、関白・太政大臣となった。信長の事業を継承しつつ独自の全国政権を築いた人物である。 |
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池田恒興
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1536年 |
(29)歳
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尾張出身の織田家臣。母が織田信長の乳母だったとされ、幼少期から信長に近侍した。桶狭間の戦い、美濃攻略、姉川の戦いなどに従軍し、荒木村重の反乱後は摂津の支配にも関わった。本能寺の変後は羽柴秀吉に協力して山崎の戦いに参加し、清洲会議でも重要な位置を占めた。のち小牧・長久手の戦いで秀吉方として徳川軍と戦い、長男の元助とともに討死した。 |
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丹羽長秀
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1535年10月16日 |
(30)歳
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織田信長に若年から仕えた重臣。美濃攻略、姉川の戦い、長篠の戦いなどに従軍し、安土城の普請奉行も務めた。若狭を領して方面支配を担い、柴田勝家と並んで「織田家の両職」と称されたともいう。本能寺の変後は織田信孝、羽柴秀吉とともに明智光秀を討ち、清洲会議では秀吉に協力した。派手な逸話は少ないが、軍事・行政・築城を支えた実務型の重臣として重要である。 |
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織田信長
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1534年6月23日 |
(31)歳
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尾張の戦国大名。父・信秀の死後に家督争いを制して尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を破った。斎藤氏の美濃を攻略すると、足利義昭を奉じて上洛し、のちに義昭を追放。安土城を拠点として畿内から各地へ勢力を広げ、楽市楽座などを進めたが、本能寺の変で明智光秀に攻められ自害した。中世から近世へ向かう政治・軍事秩序の転換を代表する人物である。 |
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朝倉義景
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1533年10月12日 |
(32)歳
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越前の戦国大名で、朝倉氏最後の当主。一乗谷を中心に安定した領国と文化を受け継いだが、足利義昭を奉じて上洛する機会を生かさず、のちに織田信長と対立した。浅井長政と連携し、金ヶ崎では信長を窮地に追い込んだものの、長期戦のなかで主導権を失った。1573年、信長軍に追撃されて一乗谷を離れ、家臣の裏切りにより自害した。信長の畿内支配を阻む反織田勢力の中核人物である。 |
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佐久間信盛
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1528年 |
(37)歳
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織田信秀以来の家臣で、信長の尾張統一、桶狭間、上洛などに参加した重臣。畿内で大軍を率い、石山本願寺攻めの責任者を長く務めたことから、織田家中でも最大級の兵力を預かった。しかし戦果が上がらないことなどを厳しく叱責する折檻状を信長から受け、1580年に子の信栄とともに追放された。長年の功臣でも結果を求められた、信長政権の緊張した主従関係を示す人物である。 |
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斎藤義龍
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1527年7月8日 |
(38)歳
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斎藤道三の子として美濃の家督を継いだ戦国大名。父との対立を深め、弟たちを殺害した後、長良川の戦いで道三を破って美濃の支配を確立した。道三の娘婿である織田信長は救援に向かったが間に合わず、その後も義龍と対立した。義龍は家臣団をまとめ、足利将軍家との関係を整えるなど領国維持に努めたが、若くして病死した。信長による美濃攻略を在世中は阻み続けた有力な対抗者である。 |
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滝川一益
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1525年 |
(40)歳
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織田信長の重臣で、鉄砲の扱いに優れた武将として知られる。伊勢攻略や長島一向一揆との戦い、甲州征伐などに参加し、武田氏滅亡後は上野を中心とする関東方面の支配を任された。本能寺の変後、北条氏との神流川の戦いに敗れて伊勢へ退いた。織田家の後継争いでは柴田勝家側につき、羽柴秀吉に降伏した。出自には諸説があり、信長の実力本位の家臣登用を示す存在の一人である。 |
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森可成
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1523年 |
(42)歳
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美濃出身の武将で、斎藤氏を離れて織田信長に仕えた。美濃攻略や上洛戦などで先鋒を務め、信長から近江の宇佐山城を任された。1570年、浅井・朝倉方と比叡山の僧兵らが京都へ迫ると、宇佐山城周辺で迎撃し、坂本の戦いで討死した。可成らの抵抗によって敵軍の進撃が遅れ、城は守られたという。森長可、蘭丸らの父であり、森氏が信長近臣として発展する基礎を築いた。 |
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武田信玄
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1521年12月1日 |
(44)歳
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甲斐の戦国大名。父・信虎を追放して家督を継ぎ、信濃へ勢力を拡大し、上杉謙信と川中島で争った。領国法の制定、治水、金山開発など内政でも知られる。晩年には足利義昭らの反信長勢力と呼応して西上作戦を開始し、三方ヶ原で徳川家康を破った。進軍途中で病没したため、信長との直接対決は実現しなかった。強大な軍事力を背景に、織田・徳川同盟へ最大級の圧力を加えた人物である。 |
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今川義元
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1519年 |
(46)歳
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駿河・遠江を支配し、三河にも勢力を及ぼした戦国大名。太原雪斎らを登用して領国法や行政を整え、武田氏・北条氏との甲相駿三国同盟を成立させた。1560年、大軍を率いて尾張へ進出したが、桶狭間の戦いで織田信長の急襲を受けて討死した。この勝利は信長躍進の契機となった。公家風で軟弱だったという俗説とは異なり、義元は東海地方に強固な領国を築いた有能な大名である。 |
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織田信秀
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1511年 |
(54)歳
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織田信長の父で、尾張国の武将。清洲織田氏に仕える奉行家の立場から台頭し、津島や熱田などの経済基盤を押さえて勢力を伸ばした。美濃の斎藤道三、三河・駿河の今川氏と戦う一方、朝廷や寺社への献金を通じて権威も活用した。尾張統一の途上で没したため家中に争いが起きたが、信長が後に飛躍するための軍事力と財力の土台を築いた人物と評価される。 |
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平手政秀
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1492年 |
(73)歳
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織田信秀・信長に仕えた尾張の重臣。外交や政務に通じ、若い信長の傅役として家中を支えたとされる。信長と斎藤道三の娘との婚姻交渉にも関与したという。信長の奇行を諫めるため自害したという逸話が著名だが、自害の理由は同時代史料から明確には分からず、家中の政治的対立など複数の説がある。信長の青年期を語る際、史実と教訓的な物語の境界に位置する人物である。 |